2013年12月31日火曜日

大晦日に「あけぼの」

2013年末、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
放置状態だった鉄道サイトからお引っ越しし、発表出来ていなかった鉄道ネタの発表の場所として、このblogを立ち上げました。
といっても、「鉄」活動がどれくらいできるか。。。
来年3月のダイヤ改正の最大のトピックスは、なんといっても、「あけぼの」の廃止でしょう。
ボクも数々の寝台特急「ブルートレイン」に乗ってきました。年々寂しくなる廃止の話題が続いてきました。
結果、信じられないことに、残るブルートレイン、いや、夜行列車があとわずかという。。。
夜行列車を本気で生かすなら、もっともっとやり方があったはず。そんな悔しい思いで列車の最後を見送ってきました。

その記録写真等も来年は公開できればと思います。
「あけぼの」あと一回乗れるでしょうか?
そんな思いで、模型で再現!?現在のEF64 1000番台牽引と、約20年前、黒磯までの直流区間、牽引はボクの大好きなEF65 1000番台。京浜東北線103系と離合。。。みたいな。

とはいっても、24系客車は、ボクが持ってるのは、出雲、あさかぜ編成に使われたKATO製なので、まぁ、雰囲気ということで。

2013年12月30日月曜日

原鉄道模型博物館に行ってきました!

横浜にある、原鉄道模型博物館に行ってきました。
何しろ、我が家が歩いて10分くらいなので、ボクが鉄道好きと知る人はみな、「当然行ったでしょ?」と聞く。

「いや、実は・・・」初めて行きました。。。
いやぁ、鉄道趣味じゃない人は、純粋にめっちゃ楽しめると思います。
しかし、やはり、原さん個人が思い入れた模型達なのでね。鉄道趣味も、興味が細分化されてねぇ。。。
世代的に、蒸気機関車と、EF58以前の旧型電機機関車となると、ボクとしても、知ってはいるが、思い入れは無い。。。ということで、そのうち行こう、と思いながら、今まで行ってませんでした。

はい。いやいや、もちろん、鉄道模型の大先輩として、尊敬します。そして、今回行ってみて、やはり、一番ゲージの大迫力は素晴らしい!あー、ウチにもこんな車両を走らせるスペースがあればなぁ。。。
一番ゲージって、縮尺が1/32だから、ちょうどタミヤのミリタリーシリーズが、1/35でニアイコールなので、人間が、あのタミヤの兵隊さんサイズ!
(タミヤのミリタリーシリーズ知らん人には、スケール感全く伝わりませんがな。。。)

今のように、膨大な種類の完成品やら、部品やらが無い時代、車体、台車から、パンタグラフのパーツに至るまで、木や金属の板や角材、丸棒から自作するのは、現代からは想像できない情熱だとおもいます。

そうだよなぁ、何か欲しい車両やパーツを、まずメーカーから検索して、買うことしか考えないボクは、メーカーの策略に見事にハマってるのかもしれませんね。
まぁ、Nゲージサイズで、シャープで精密な工業製品と並べて見劣りしない自作モデルが作れれば、達人級ですね。
でも、雑誌「鉄道模型趣味(TMS)」を見ると、クラフトペーパーを切り出して、張り重ねて、素晴らしい自作車両を作るモデラーさんもいらっしゃいます。

いや、その前に、うちにある、膨大な未完成のキットの山をどうにかしましょう。。。
早くこのブログに完成写真を掲載しましょう!

2013年12月25日水曜日

タキ43003

メリークリスマス!ということで、輝くタキ43003。
819両作られたタキ43000の中でも、超初期車。
1967年製造。え?既に46歳!?もっと車齢が若い貨車が、どんどん廃車になる中でも、タキ43000だからこそ現役バリバリなわけですね。
@八王子。タキ1000の増備が続く中、中央線ではまだまだタキ43000ばかりで組成された貨物列車を見かけます。しかし、日本オイルターミナルと、日本石油輸送のタキは、いつから混成されるようになったのでしょうか?所有者の変更もよくあるみたいですし。

では、横浜線東神奈川行き最終電車で帰ります〜

2013年12月23日月曜日

あずさ

勤務先が八王子なのですが、今日も出社してました。
仕事が終わって、忘年会に急げ!!
そんな時こそ、あずさに乗ります!

岡山臨港鉄道7003型

今日も岡山臨港鉄道の話題をひとつ。
廃止後、岡山市南区の保育園で図書室(?)として使われている岡山臨港鉄道7003型。

昭和33年(1958年)遠く北海道の夕張鉄道で生まれて、水島臨海鉄道を経て昭和53年に岡山臨港鉄道に導入された湘南顔の気動車。

基本的に2両以上で使用されるため、片面湘南顔、片面は切妻。
切妻面を背中合わせに連結すれば、後ろも前も、かっこいい湘南顔になるわけです。

しかし、岡山臨港鉄道では1両で運行されるために、切妻面の簡易運転台を先頭にしちゃいました。
そして、コレが後ろの切妻面。
いろいろ調べてて、先日判明したのですが、兄弟の7001型と7002型は、一応この切妻面にテールライトがあったようです。(Wikipediaにも写真があります

英田郡にあった、7001型と7002型も解体されちゃったし、バス窓は一部改造されていますが、貴重な車両です。

2013年12月22日日曜日

本日の新鶴見区

本日の新鶴見区。EF65 2066 2070がいます。
2000番台つーか、1056番以降のEF65は、前のブログで書いた一般形0番台とは、車齢で10年くらい若いのですが、2013年3月以降、運用が狭まってしまいました。
ほぼ、ボクと同じ年なので、なんとなく気がかりなのです。がんばれ!

EF65


EF65一般色牽引の貨物列車。
EF65は、ボクが一番好きな機関車です。

この一般色はどんな貨物列車でも似合います。
以前にso-netblogでご紹介したときには、この一般色「引退間近」と書きましたが、2011年3月岡山機関区での運用を最後に消滅してしまいました。

機関車はほぼKATO製品で揃えていますが、EF65一般色、500番台、1000番台と製品化しているのがKATOであった為で、模型ファンはご存知の通り、TOMIX製品と並べると、全長等違いが目立ち過ぎ!!
TOMIXの方がスケール通りらしいのですが、KATOのデフォルメは好ましく、何より精巧な出来映えは申し分ありません。

2013年12月21日土曜日

岡山臨港鉄道について


この写真は、1984年(昭和59年)12月30日に廃止となった岡山臨港鉄道の線路跡の写真です。
岡南泉田~岡南福田間、廃止後、1988年頃、当時小学校4年生の自分が父と廃線跡を自転車で巡った時の写真です。

岡山臨港鉄道とは、岡山県岡山市の国鉄(現JR西日本)大元駅から岡山港駅まで、全長8.1kmの私鉄でした。

こちらは、終端部分、岡山港の引込み線が引き込まれていた倉庫の横。


玄関を出てすぐ隣というわけではありませんが、途中駅であった並木町駅近隣で生まれ、岡山臨港鉄道の汽笛の音を聞いて育ち、また、釣りの好きな父に連れられ、釣りや犬の散歩の為、頻繁に岡山港に連れて行ってもらった自分にとって岡山臨港鉄道は自分が鉄道好きになる基礎を築いたなじみある鉄道でした。
小学校は築港元町駅のすぐ隣の小学校でした。もっとも、自分が小学校に上がる頃には、既に廃止されていましたが・・・。

自分が現役時代、ほとんど写真を撮っていなかったことが、非常に悔やまれます。
(まあ、幼稚園児でしたから)

検索してみると、岡山臨港鉄道も、別府鉄道や、比較的最近廃線となった片上鉄道、下津井電鉄と並んで掲載された本が多く出るようになりました。
記事を目にする度自分の記憶が蘇ります。
「地味な私鉄だったけど、そこそこ多くの人が訪れていたんだな(今も廃線跡を訪れる人がいるようです)」と思います。

今は、自分も岡山を離れ、現在横浜の地でこの文章を書いています。
岡山臨港鉄道についての記憶が薄れていくのと同時に、岡山に帰る度、廃線跡の風景は開発され、その遺構は失われていきます。

このblogの一つのテーマとして、岡山臨港鉄道に関する僕の記憶をつなぎとめながら、廃線後撮ってきた写真をできる限り公開して残していきたいと思います。
そして、それを元に、自分なりの考察も交えながら改めて「岡山臨港鉄道」に対しての趣味的、歴史的研究を行い、さらに、眠っている資料を発掘し、とにかく忘れられつつある「岡山臨港鉄道」について可能な限り呼び起こそうという趣旨で記載いたします。
できることならば誰か目に留まった御先輩方の眠っている資料の発表の機会となり、「岡山臨港鉄道」を一趣味人の立場ながら後世に伝えていく一助となればと思っています。

浜鷹貨物駅(編集再掲)


濱鷹は、鎌倉時代の叢書に捕鯨の記録が残るなど古くからの漁港として栄えた。
江戸時代は高瀬舟の潮待ちの港として、明治以降は紡績を中心とした近代工業地域として発展した。
その工業製品輸送の為に戦前、全国有数規模の貨物専用駅として濱鷹貨物駅(現:浜鷹貨物駅)が開業した。

実家に帰って軽く撮影して参りましたので、また1シーンをご覧下さいませ。

前回書いた通りレイアウトの主役は浜鷹貨物駅ヤード。その周囲を高架の千備(チビ)線が囲むシンプルな配置。
貨物駅到着・出発線と小呂(コロ)駅の間には貨物削減の煽りを受けた(?)無駄な空地が広がります。

写真は、線路を剥がされた空地を散歩するカップル。
彼「ほら、あのクリーム色の貨物列車は穀物を運んでいるんだよ」
彼女「ふーん(つまんな~い)」

ホントは犬を散歩させたかったのですが、犬がいなかったので・・・

遠くに赤とクリーム色の気動車が見えますが、ここが浜鷹臨港鉄道旅客ホームです。
小呂駅からは、ヤードを長い跨線橋で越えなければなりません。
朝夕の浜鷹臨海工業地域への通勤客以外の一般地元客の殆どが、城跡のある浜鷹市駅から直通し浜鷹臨港鉄道と並走するバスを利用しています。

気動車(ディーゼルカー)は、ペアーハンズの東武熊谷線用キハ2000キットを組立てたものですが、中学時代の作品で、メタルプライマーが十分でなかったのか、塗装が剥げてきておりますので、これ以上のアップは勘弁して下さい。
再塗装したいと思っていましたが、TOMYTECの鉄道コレクション第10弾でプラスティック完成製品化されてしまいました。。。鉄コレの方が出来がよい。。。あーあ、ペアーハンズ製品、高かったのになぁ。。。

tagging(再掲)


まだ未完成ですが、実家の「浜鷹臨港鉄道」のJRとの乗換駅、「小呂(コロ)駅」の風景。

千備(チビ)線はJR×○本線「浜鷹駅」から海側に分離する盲腸線。
JR×○本線浜鷹駅は、浜鷹市の東の外れ、今はフェリー港や卸売市場のある元漁港(漁村)の近隣に位置している。
千備線は、城跡のある本来の浜鷹市の中心部、「浜鷹市駅」に停車、その隣駅が、明治以降の工業地域「小呂」である。
「浜鷹市駅」で分離した貨物線は、高架の千備線と平行して小呂駅に隣接した「浜鷹貨物駅」に至る。
戦後、小呂からの遠浅の海は埋め立てられ、新しい工業地域となった。
その埋立地の貨物輸送を担うのが、小呂駅で乗り換える「浜鷹臨港鉄道」である。(妄想!)

全体写真は・・・見せれるものが無いので、今度実家に帰ったら、撮影してきますね・・・。

あ~あ、前回の更新から日が経ってしまいましたが・・・。
ボクに苦手なこと・・・継続。

で、そんなこんなで高校生の頃、浜鷹臨港鉄道の構想を始め、構想約4年、自分は横浜の大学に通い始めました。

横浜に来て嬉しかったことは、岡山で手に入らなかった模型素材がガシガシ手に入ること。
なにしろ、岡山ではグリーンマックスの商品でさえ満足に手に入らなかった。(その頃情報が乏しかったこともあるが)

そのため、四国高松や、大阪に行った際に手に入れたGMのコルゲート板(本来ステンレス車両の外板の表現用。その形状から、ストラクチャー(建物)のトタン板の表現用として多用)さえ、チビチビと、切った切りカスさえ捨てなかったものだ。

さて、前回のお話の通り、衰退する操車場、貨物列車の止まる貨物駅の製作を開始したのは、やっと大学4年になった頃でした。

前回お話した通り、自分の構想を模型化するためにはただただ「広大な(広大に見える)空地」の表現が必要なのです。
普通、レイアウト製作においてはそのスペースを(建物等で)如何に埋めるか、ですが、線路をエンドレス(円形)に引きながら、如何に広大な(広大に見える)スペースを作るかに重点を置くという、全く贅沢な悩みからスタートしたのでした。
そして、ボクのいなくなった岡山のボクの部屋(要は横浜で暮らすようになったし)に、畳2畳分のスペースを設け、贅沢なレイアウト作りはスタートしたのでした。

ベルリン天使の詩(再掲)


杖をついた老爺が、昔のポツダム広場の喧騒を偲びながら、よたよたと歩く。
何も無い、草の生えた広場。

やがて老人は、カーブを描いた高架線の下の捨てられたソファーにぐったり座り込む。

ヴィム・ヴェンダース監督 ブルーノ・ガンツ主演「ベルリン天使の詩」。高校生の時、友人の紹介で観て以来、ボクの最も好きな映画の一つです。

自分がこの広場を訪れたのは、2000年。
既に壁は無く、ソニーセンターとバーンタワーが建設の真っ最中(あれ?もう出来てたかな?)。
しかし、ヨーロッパ独特の、(映画の中で天使も腰掛けた)タワークレーンが連立し、再開発真っ最中でありました。

都会のど真ん中にもかかわらず、何も無い広場に、線路。
壁が隔てたベルリンならではの光景と思いきや、似た光景が日本各地にありました。

1884年2月1日のダイヤ改正以降、日本各地で不要となった、広大な操車場跡地。
そもそも操車場とは、貨車を行き先別に仕分けするところで、荷物は自分の足で歩かないから、郵便を行先別に箱に分けるように、貨車を坂の上から転がして(落として)、ポイントを操作しながら、その行先の線路に入れていく場所。
線路は行先の数だけ分かれていなければならないわけで、広大なスペースが必要だった。

1984年、赤字に苦しんでいた国鉄は、そんなまどろっこしいことやってられるか!!とぶち切れて、「貨物はトラックに任せた」と、全国の操車場を廃止した。
ボクが物心ついた頃には、その操車場のほとんどの線路は剥がされ、脇を本線が駆け抜けるだけのだだっ広い空き地となっていた。
首都圏ならば、横須賀線新川崎駅脇の新鶴見操車場、さいたま新都心になった大宮操車場、大阪は吹田操車場等が有名。
同時に、国鉄の線路上から貨物列車が大幅に削減された。
そのあおりを受け、以降、日本各地の「貨物駅」といわれる場所も多くが廃止になり、操車場ほどの広大さは無いものの、草生してさびた線路が広がる、ぽっかりとした都心の空き地がそこここに出来た。

最初に訪れたのは地元岡山の西岡山操車場。
岡山県立普通科5校の一つ、岡山大安寺高校に訪問の際、脇の細道、自転車を漕ぎながら、その光景に何故か惹かれました。
その後、再訪。
脇に岡山回生病院があり、その屋上から夕日を眺めました。

操車場は無くなったものの、「西岡山貨物駅」自体は今も健在で、ボクが眺める貨物列車は、広大な空き地の脇で細々と走っていました。
さらにその向こうを人を乗せた電車が小さく走り抜けていきます。
要は、操車場による仕分けをしない「直行系貨物列車」は生き残り、貨物駅は機関車を付け替えたり、現在の貨物列車の主流であるコンテナ積み降ろしの為の駅として生まれ変わったのでした。
(注:要は、大阪発、東京行きの列車は、今までは大阪周辺の駅発の貨物を一回吹田に集めて仕分けしていたが、直にコンテナ等で大阪貨物駅に運びこんで送ったり、石油とかセメントとかは、ある工場からある工場まで直行で荷物を運ぶようになったわけ)

その後、岡山操車場跡地にサーカスがやってきた光景を見ました。
その光景は「ベルリン天使の詩」のサーカスと結びつきました。

益々この光景に感銘を受けた自分は、いつかこの光景を模型で!!と思い立ったのでありました。

携帯からの投稿テスト

八王子

浜鷹臨港鉄道竣工にあたって(再掲)

初夏。
夏休み前、放課後は必ず角の駄菓子屋でくじを引いて、買ったお菓子を食べながら前の小川で遊びます。
こないだはびっくりするくらい大きな牛ガエルを捕って、次の日教壇に隠して先生が腰を抜かしました。
今日の狙いはこの川のヌシの大亀です。


浜鷹臨海鉄道、竣工にあたっては、2007年にso-netblogで掲載したものの再掲になります。
初回は、自分が中学生の時の作品から。


当時、試行的授業として、一週間に一時間、選択授業というものがあり、絵を描くことも好きなボクは、「美術」を選択した。
その授業の卒業前の自由課題として、作成したものである。
勿論、ただ単にNゲージのストラクチャー制作をするわけにはいかないから、コンセプトは、日本の忘れられつつある懐かしい風景を鍋のサイズに凝縮して味わって頂こうというもの。タイトルは、「いただきます、日本」だったか、「日本の情景、いただきます」だったか・・・。
しかし、映画「三丁目の夕日」や、リリー・フランキーの「東京タワー」のヒットや、TOMYTECの建物コレクション、バンダイ「私の生まれた街」などが発売されるずっと以前に、日本人のノスタルジーに訴えるこの作品は学校内でなかなか好評で、暫く校内に飾られた。勿論時代設定とした1960年代、1970年代に最も感銘してくれたのは、中学生である友人よりも、先生方であったが。


駄菓子屋の建物は当時岡山市東山にあった中学校の前にあった建物をプロトタイプとして、プラ板で作成。
雑誌鉄道模型趣味(TMS)1988年12月号にプラ板自作による羽目板木造建造物「機関車駐泊所」の素晴らしい作例があり、その詳細記事を元に作成しました。

プラモデルは何度も作成していましたが、いつも着色の段階で失敗(未だに上手いとはいえませんが)していました。この作品も柱と壁の塗り分けに雑さが目立ちますが、初めて「フラットアース」(艶消し剤)を使用。その効果に感動したのを今でも覚えています。それまではグリーンマックスの建物キットも艶アリアリで塗ったくって、何故こんなに実感味が無いのか、と嘆いておりました。川床には砂場の海砂を使用し、青緑に塗って木工用ボンドを塗りました。草や木の葉には台所用スポンジタワシを多用。結果として一部使用したライケンより実感味があり、安上がりです。
今でこそWOODLANDSCENICS社の超実感的(かつ高価)なレイアウト用品が手に入りますが、当時岡山で手に入るといえばTOMIX製品のみ。
しかし、使い方によっては今でもナイロンタワシは欠かせません。
お陰で100円ショップのスポンジ、タワシ類は「草木の材料として使えるかどうか」を基準として選んでしまいます。

ところで、こうやって約15年経った作品を見て、カラーパウダーの退色っぷりときたら・・・。
まぁ、15年ももつ必要はありませんが、もうひとつの作りかけのレイアウトに至っては、多少なりとも日が当たってしまうこともあり、一年経てば青々した草原が枯果てていました・・・結局今後は少々高くてもフォーリッジを使うことになりそうです(泣)