※あくまで、事実を元にしたムーニーの妄想、ノンフィクション小説です。
2019年9月某日木曜日、11時38分に品川駅を出た快速特急電車は、間もなく、この私鉄最高速運転となる区間に達しようとしていた。運転士はノッチ(車で言えばアクセル)フル加速、通過する駅の駅名も読めないくらいの速度だった。
一方、千葉県生まれ、千葉育ち、成田の小さな運送会社に勤める、成宮淳史(仮名)67歳は、13トン積みの4軸大型トラックを運転し、一方通行の狭い路地に入り込んで徐行運転をしていた。
「チキショー、あの原付がいなきゃ、Uターンできたのに。。。まさかあのタイミングで直進してくるなんてよぉ。。。」
プシュー、プシュー、と、トラックのエアブレーキが、歩行者に接近するたびに悲鳴を上げている。
こんな道では、13トンの箱車をバックさせることはできない。もう少し進んで曲がれば、広い道に出られるはずだ。
そのはずだった・・・。
成宮は、昭和27年、千葉県に生まれた。子供の頃は、おとなしい方だったと言える。兄が2人いたから、どちらかというと、甘えて育ってきたのかもしれない。
自分の意見を言わなくても、兄が率先して物事を進めてくれた。
18歳で高校を卒業した。小さいながら農家だったが、家は兄が継ぐため、成宮は高校御卒業してすぐに、東京の大手家電メーカーに就職した。就職したころは、1970年、高度経済成長末期で、まだ、「集団就職」なんて言葉も通用していた。成宮のように、おとなしい、まあ、平凡な高校卒業でも、当時イケイケだった一流家電メーカーは、就職の門戸を広く開けていたのだ。就職した後は、全国の工場を転々とした。その工場の雰囲気に慣れた頃に、転勤の辞令が出る。おとなしい成宮は、社内になかなか仲の良い友達を作ることが出来なかった。
そんな中で、一番面白かったのは、九州工場時代だっただろうか。酒から女まで、地元九州出身の、先輩にあらゆる悪いことを教えてもらった。
1980年、28歳の頃、東京本社勤務になった。千葉の実家からも約1時間足らずで通えるように、という、社内の配慮もあったと思う。
地元の旧友との交流も戻ってきた。そんな時、人からの紹介で、今の妻と知り合うことになった。
1年余りの交際を経て、結婚。1982年、30歳の頃、第一子誕生。女の子だった。
会社の仕事も忙しく、家に帰るのは毎日終電近かったが、それほどお酒が強くなかったし、子供の顔を見るために、毎日ちゃんと家に帰ることが楽しみだった。
男家庭で育った成宮にとって、女の子の成長過程を見るのは、もの珍しくもあり、しかし、かわいくて仕方が無かった。
1985年、第二子が誕生。こちらも女の子であった。
その後、バブルが崩壊。
IT革命も起きて、日本を牽引してきたともいえる家電メーカーは、一気に苦境に立たされた。
1997年、成宮は45歳。本社勤務だった成宮の元に、子会社への出向、分社化された東北地方への勤務が言い渡された。
長女は、中学性になっていた。小さいころ、あんなになついていた成宮とは、今は、顔を合わせるたびにケンカをする日々だった。
今思うと、年頃になった娘に対して、少々口うるさかったかもしれない。
娘は二人とも母親になついてしまい、自分が仕事で家を不在がちだったことを今更ながら悔やんだ。
そんな中での出向の辞令だった。
会社には友達も少ないし、自分の勤務する家電メーカーは、海外企業との提携を視野に入れているとの噂も飛び交っていた。
変に責任ばかり増えている自分の立場にも苛立っていた。
子会社への出向は、片道切符だ。
今更、全く知らない社員にどう接していけばよいのだろう。
関東近県に戻ってこれるのはいつになるだろう。
今更単身赴任をすれば、家庭の中で成宮の存在はますます薄くなるに違いない。
家と、会社のストレスで、押しつぶされそうになりながら、成宮は、誰にも相談できないでいた。
世間は「就職氷河期」とも言われる時代で、大学新卒でさえ、就職に苦難する時代だった。
しかし、成宮は、19年間務めた大手家電メーカーを止める決意をしてしまう。
そろそろ、自分一人でもう少し気楽に仕事をしたい、そんな思いで、成宮は会社の出向辞令を蹴った。
秘かに、地元の転職情報誌で見た、大手運送会社の運転手募集広告に応募していた。
「就職氷河期」と言われる時代だったが、新卒から19年間、真面目に勤務していたことが評価され、運よく成宮は、その大手運送会社への転職が決まったのだ。
成宮の中では、「大手」家電メーカーから「大手」運送会社へ、という「大手」への安心感もあった。
年齢は、45歳、高卒で就業できる企業なんて限られていたし、給料面の待遇はほとんど変わらなかった。
普通免許で運転できる、4トントラックの運送業務から、成宮の第二の人生はスタートしたのだった。
大手運送会社で、最初は、千葉県内の配送拠点から、2トンや4トントラックでの宅配業務に従事していた。
もちろん、その運送会社では、10トンを超える大型トラックでの配送拠点間の長距離業務の方が、待遇が良い。
会社の中でも大型免許の取得支援もあった。
それに加えて、成宮の家庭事情も、成宮に大型トラックでの長距離業務への決心を強めさせた。
成宮は、1987年に、千葉の実家の近くに、一戸建ての家を購入し、その住宅ローンもあった。
そして、中学、高校に進んだ娘たちの中で、家庭での存在感がどんどん希薄になっていく意識もあった。
成宮は寂しかった。
「寂しい思いをする家庭に帰りたくない」そんな思いもあった。
会社の大型免許取得支援制度を利用し、1999年、47歳で大型免許を取得した。
前の会社に残っていたとしても、単身赴任ならば、大型免許を取得して、長距離配送業務になって家に帰ることが少なくなっても、結局は同じではないか!という思いもあった。
1999年、成宮47歳。
成宮の業務は、関東から関西、九州、四国、東北、北海道、全国への長距離大型トラックの運転手となった。
<つづく>
#ムーニー劇場
#ムーニー小説劇場
#トラック浪花節
2019年9月8日日曜日
2019年5月16日木曜日
三菱ふそう ザ・グレード船底ダンプ
本日会社に行く途中、とうとう捉えました!!
三菱ふそうザ・グレート、船底ダンプ!
興奮を抑えながら、お声かけて、作業範囲外から撮影!
グリル形状から、1986年改良型と思われます。
「トラック野郎」の一番星号で有名な、三菱ふそうFシリーズから、1983年にモデルチェンジ、角目ライトと直線系の近代的な外観と共に、三菱ふそうのトラックのラインナップ「キャンター」「ファイター」「ザ・グレート」が出そろいました。
写真のダンプは、自衛隊でも同型を採用された、1986年改良型と思われます。
グリルの「FUSO」の文字が車体色に塗られ、おでこの速度表示灯は外されているようです。
以前から、伊勢原、平塚近辺で生息していることは確認しており、2018年12月に走行中の姿を慌てて撮った写真がこちらです。
青い車体、赤いシャーシ、バリバリの現役!!
昭和→平成→令和を生き続けたダンプ!!末永い活躍を!!
#旧車
#はたらくじどうしゃ
#ザ・グレート
#三菱ふそう
三菱ふそうザ・グレート、船底ダンプ!
興奮を抑えながら、お声かけて、作業範囲外から撮影!
グリル形状から、1986年改良型と思われます。
「トラック野郎」の一番星号で有名な、三菱ふそうFシリーズから、1983年にモデルチェンジ、角目ライトと直線系の近代的な外観と共に、三菱ふそうのトラックのラインナップ「キャンター」「ファイター」「ザ・グレート」が出そろいました。
写真のダンプは、自衛隊でも同型を採用された、1986年改良型と思われます。
グリルの「FUSO」の文字が車体色に塗られ、おでこの速度表示灯は外されているようです。
以前から、伊勢原、平塚近辺で生息していることは確認しており、2018年12月に走行中の姿を慌てて撮った写真がこちらです。
青い車体、赤いシャーシ、バリバリの現役!!
昭和→平成→令和を生き続けたダンプ!!末永い活躍を!!
#旧車
#はたらくじどうしゃ
#ザ・グレート
#三菱ふそう
2019年4月30日火曜日
平成最後の日に平成元年
平成元年のボクです!父撮影。
平成31年4月30日、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
コトデン=高松琴平電気鉄道、瓦町駅、旧駅舎が残っています。(1994年解体)
瀬戸大橋が開通して、ボクは高松、瓦町にあった鉄道模型店「レイルハウス高松理工」に、当時岡山では手に入らなかったメーカーの模型を求めて購入しに来ていたのでした!!笑笑
まだ、平成元年のコトデンでは、こんなのが普通に走っていました。
元京浜急行デハ230。
ホビーセンターカトーに保存されていますね。
もう、ボクは鉄道写真に目覚めていましたw
カメラは、親の持っていた「フジカデート」
http://www.asahi-net.or.jp/~rd2h-ari/FU_DATE.htm
なんと、写真に日付が入る!素晴らしいカメラでしたw
そしてここからディープな話題です!!
平成元年、「金利家」の本家がある中国勝山(旧真庭郡勝山町、今の真庭市)によく来ていました。
今も久世と共に真庭市の中心的な町であり、姫新線の津山~新見間でも、津山発、中国勝山終点の列車も走っています。
しかしながら、駅は平成12年に駅舎が建て替えられて、委託駅となりました。今でも車両の夜間駐拍もあるようで、平成14年には、夜間駐拍中の無人の列車が、ブレーキの利きが甘かったらしく、夜中に久世方面に無人暴走する事故(被害者は無し)も起こったりしました。
その中国勝山、平成元年3月10日までは、何と大阪発、中国勝山行の急行列車が走っていました!!
急行「みまさか」。
「みまさか」は、「美作」と書きます。津山藩を中心に、岡山県で旧美作国のあった北東部の「美作」に由来します。
津山まで、鳥取行の急行「みささ」と併結されていたので、急行「みささ・みまさか」と記憶されている方もいらっしゃると思います。(←いや、記憶に無い人の方が多いだろう。。。)
中国勝山駅、急行「みまさか」です。
とは言っても、津山から中国勝山間は各駅停車扱いで運行されていたので、急行「みまさか」単独で走行する区間は無いので、ややこしいですね。。。
「みささ」も、津山から鳥取間は、砂丘に併結されたので、「みささ」単独では走らないのですが。。。
勝山の「ボンエース」!ラーメンが非常に不味かったwww
中鉄バスの日野ブルーリボンも懐かしい笑
このブルーリボンの同型が、昨年まで残っていたのですから、中鉄バスも素晴らしいですね。
平成31年4月30日、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
コトデン=高松琴平電気鉄道、瓦町駅、旧駅舎が残っています。(1994年解体)
瀬戸大橋が開通して、ボクは高松、瓦町にあった鉄道模型店「レイルハウス高松理工」に、当時岡山では手に入らなかったメーカーの模型を求めて購入しに来ていたのでした!!笑笑
まだ、平成元年のコトデンでは、こんなのが普通に走っていました。
元京浜急行デハ230。
ホビーセンターカトーに保存されていますね。
もう、ボクは鉄道写真に目覚めていましたw
カメラは、親の持っていた「フジカデート」
http://www.asahi-net.or.jp/~rd2h-ari/FU_DATE.htm
なんと、写真に日付が入る!素晴らしいカメラでしたw
そしてここからディープな話題です!!
平成元年、「金利家」の本家がある中国勝山(旧真庭郡勝山町、今の真庭市)によく来ていました。
今も久世と共に真庭市の中心的な町であり、姫新線の津山~新見間でも、津山発、中国勝山終点の列車も走っています。
しかしながら、駅は平成12年に駅舎が建て替えられて、委託駅となりました。今でも車両の夜間駐拍もあるようで、平成14年には、夜間駐拍中の無人の列車が、ブレーキの利きが甘かったらしく、夜中に久世方面に無人暴走する事故(被害者は無し)も起こったりしました。
その中国勝山、平成元年3月10日までは、何と大阪発、中国勝山行の急行列車が走っていました!!
急行「みまさか」。
「みまさか」は、「美作」と書きます。津山藩を中心に、岡山県で旧美作国のあった北東部の「美作」に由来します。
津山まで、鳥取行の急行「みささ」と併結されていたので、急行「みささ・みまさか」と記憶されている方もいらっしゃると思います。(←いや、記憶に無い人の方が多いだろう。。。)
中国勝山駅、急行「みまさか」です。
とは言っても、津山から中国勝山間は各駅停車扱いで運行されていたので、急行「みまさか」単独で走行する区間は無いので、ややこしいですね。。。
「みささ」も、津山から鳥取間は、砂丘に併結されたので、「みささ」単独では走らないのですが。。。
改札口から撮った写真。この頃は駅員もいたので、入場券無しで無理やり撮った写真です。この日は、キハ58、キハ28、窓枠からキハ65の3両編成!?
記憶では、急行「みまさか」の到着を時刻表で調べたので間違いないとおもうのですが、「みささ」はグリーン車を含むキハ28、キロ28、キハ58の3両編成だったので、津山までは「みまさか」と併結して、6両だったのでしょうか?
おまけで、平成元年、中国勝山駅、駅前。記憶では、急行「みまさか」の到着を時刻表で調べたので間違いないとおもうのですが、「みささ」はグリーン車を含むキハ28、キロ28、キハ58の3両編成だったので、津山までは「みまさか」と併結して、6両だったのでしょうか?
勝山の「ボンエース」!ラーメンが非常に不味かったwww
中鉄バスの日野ブルーリボンも懐かしい笑
このブルーリボンの同型が、昨年まで残っていたのですから、中鉄バスも素晴らしいですね。
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