2019年9月8日日曜日

ムーニー小説劇場 「トラック浪花節」

※あくまで、事実を元にしたムーニーの妄想、ノンフィクション小説です。

2019年9月某日木曜日、11時38分に品川駅を出た快速特急電車は、間もなく、この私鉄最高速運転となる区間に達しようとしていた。運転士はノッチ(車で言えばアクセル)フル加速、通過する駅の駅名も読めないくらいの速度だった。

一方、千葉県生まれ、千葉育ち、成田の小さな運送会社に勤める、成宮淳史(仮名)67歳は、13トン積みの4軸大型トラックを運転し、一方通行の狭い路地に入り込んで徐行運転をしていた。
「チキショー、あの原付がいなきゃ、Uターンできたのに。。。まさかあのタイミングで直進してくるなんてよぉ。。。」
プシュー、プシュー、と、トラックのエアブレーキが、歩行者に接近するたびに悲鳴を上げている。
こんな道では、13トンの箱車をバックさせることはできない。もう少し進んで曲がれば、広い道に出られるはずだ。
そのはずだった・・・。

成宮は、昭和27年、千葉県に生まれた。子供の頃は、おとなしい方だったと言える。兄が2人いたから、どちらかというと、甘えて育ってきたのかもしれない。
自分の意見を言わなくても、兄が率先して物事を進めてくれた。
18歳で高校を卒業した。小さいながら農家だったが、家は兄が継ぐため、成宮は高校御卒業してすぐに、東京の大手家電メーカーに就職した。就職したころは、1970年、高度経済成長末期で、まだ、「集団就職」なんて言葉も通用していた。成宮のように、おとなしい、まあ、平凡な高校卒業でも、当時イケイケだった一流家電メーカーは、就職の門戸を広く開けていたのだ。就職した後は、全国の工場を転々とした。その工場の雰囲気に慣れた頃に、転勤の辞令が出る。おとなしい成宮は、社内になかなか仲の良い友達を作ることが出来なかった。
そんな中で、一番面白かったのは、九州工場時代だっただろうか。酒から女まで、地元九州出身の、先輩にあらゆる悪いことを教えてもらった。
1980年、28歳の頃、東京本社勤務になった。千葉の実家からも約1時間足らずで通えるように、という、社内の配慮もあったと思う。
地元の旧友との交流も戻ってきた。そんな時、人からの紹介で、今の妻と知り合うことになった。
1年余りの交際を経て、結婚。1982年、30歳の頃、第一子誕生。女の子だった。
会社の仕事も忙しく、家に帰るのは毎日終電近かったが、それほどお酒が強くなかったし、子供の顔を見るために、毎日ちゃんと家に帰ることが楽しみだった。
男家庭で育った成宮にとって、女の子の成長過程を見るのは、もの珍しくもあり、しかし、かわいくて仕方が無かった。
1985年、第二子が誕生。こちらも女の子であった。

その後、バブルが崩壊。
IT革命も起きて、日本を牽引してきたともいえる家電メーカーは、一気に苦境に立たされた。

1997年、成宮は45歳。本社勤務だった成宮の元に、子会社への出向、分社化された東北地方への勤務が言い渡された。
長女は、中学性になっていた。小さいころ、あんなになついていた成宮とは、今は、顔を合わせるたびにケンカをする日々だった。
今思うと、年頃になった娘に対して、少々口うるさかったかもしれない。
娘は二人とも母親になついてしまい、自分が仕事で家を不在がちだったことを今更ながら悔やんだ。
そんな中での出向の辞令だった。
会社には友達も少ないし、自分の勤務する家電メーカーは、海外企業との提携を視野に入れているとの噂も飛び交っていた。

変に責任ばかり増えている自分の立場にも苛立っていた。
子会社への出向は、片道切符だ。
今更、全く知らない社員にどう接していけばよいのだろう。
関東近県に戻ってこれるのはいつになるだろう。
今更単身赴任をすれば、家庭の中で成宮の存在はますます薄くなるに違いない。
家と、会社のストレスで、押しつぶされそうになりながら、成宮は、誰にも相談できないでいた。

世間は「就職氷河期」とも言われる時代で、大学新卒でさえ、就職に苦難する時代だった。
しかし、成宮は、19年間務めた大手家電メーカーを止める決意をしてしまう。
そろそろ、自分一人でもう少し気楽に仕事をしたい、そんな思いで、成宮は会社の出向辞令を蹴った。
秘かに、地元の転職情報誌で見た、大手運送会社の運転手募集広告に応募していた。
「就職氷河期」と言われる時代だったが、新卒から19年間、真面目に勤務していたことが評価され、運よく成宮は、その大手運送会社への転職が決まったのだ。
成宮の中では、「大手」家電メーカーから「大手」運送会社へ、という「大手」への安心感もあった。
年齢は、45歳、高卒で就業できる企業なんて限られていたし、給料面の待遇はほとんど変わらなかった。
普通免許で運転できる、4トントラックの運送業務から、成宮の第二の人生はスタートしたのだった。

大手運送会社で、最初は、千葉県内の配送拠点から、2トンや4トントラックでの宅配業務に従事していた。

もちろん、その運送会社では、10トンを超える大型トラックでの配送拠点間の長距離業務の方が、待遇が良い。
会社の中でも大型免許の取得支援もあった。
それに加えて、成宮の家庭事情も、成宮に大型トラックでの長距離業務への決心を強めさせた。
成宮は、1987年に、千葉の実家の近くに、一戸建ての家を購入し、その住宅ローンもあった。
そして、中学、高校に進んだ娘たちの中で、家庭での存在感がどんどん希薄になっていく意識もあった。

成宮は寂しかった。
「寂しい思いをする家庭に帰りたくない」そんな思いもあった。
会社の大型免許取得支援制度を利用し、1999年、47歳で大型免許を取得した。
前の会社に残っていたとしても、単身赴任ならば、大型免許を取得して、長距離配送業務になって家に帰ることが少なくなっても、結局は同じではないか!という思いもあった。

1999年、成宮47歳。
成宮の業務は、関東から関西、九州、四国、東北、北海道、全国への長距離大型トラックの運転手となった。
<つづく>
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